消費社会の神話と構造 ジャン・ボードリヤール
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1970
「資本主義のような大量消費の世の中では、生産時の労働集約度ではなく、商品の価値はその商品の持つイメージで決まる」 「個性」や「個性化」を重視することで「差異」を内在化し、どんどん消費社会は腐ってく 消費=言語活動=差異のシステム
生産と消費がシステム自体の存続のために食われてしまっている。社会のシステムはもはや余剰を生まない ボードリヤールにはいろいろ穿った指摘があるが、一番感心したのは、「生産と消費がシステム自体の存続のために食われてしまっている」という見方だった。銀行は銀行の維持のために、大学は大学の存続のために、百貨店は百貨店であることを自己言及するために、そこに生じている生産と消費を食べ尽くす。これをいいかえれば、社会のシステムはもはや余剰を生まないだろうということである。新たな富なんてつくれないということだ。 なぜなら欲望の動向は福祉の動向に吸いこまれ、商品の市場民主主義は貨幣の国際民主主義に取りこまれ、何かの均衡はどこかの不均衡のために消費されざるをえないからである。
仮想社会のためのテキストとも読める松岡正剛.icon 参照